※『IRIS』詩さんからのいただきものです。
* * *
当然と言えば当然だが、雨林にはよく雨が降る。激しい雨もあれば、恵みのように優しい雨もある。予想できる雨もあれば、何の前触れもなく降る雨もある。今、アビディアの森に降っている雨は、何の前触れもない激しい雨。つまりは一番困るタイプのものだった。レンジャーとして森のパトロールをしていたティナリとシオンは、雨の気配を感じるとすぐに近くの洞穴に駆け込んだ。ふたりが洞穴に滑り込んだとたんに、滝のような雨が轟音とともに降り注ぐ。ふたりは同時に安堵の息を吐き出したが、シオンが服の裾を絞ってみると、足元に小さな水たまりができてしまった。
「最悪。びしょ濡れになっちゃった」
「ちょっと、シオン。脱がないでよ」
「わかってる。ティナリにガミガミ言われたくないし」
ティナリは呆れたように長く息を吐き出した。小言を言われなければ、シオンはおそらく迷わずに濡れた服を脱ぐのだろう。それは濡れてしまったときの対処法としては間違いないのだが、ティナリにとっては複雑だった。それは自分が異性として意識されていないのか、それとも逆に信頼しきっているのだろうか。どちらにせよ、ティナリにとっていろんな意味で頭を抱えるべき難題であることに変わりはなかった。
「っ、くしゅ!」
控えめなくしゃみが洞穴の中に響く。シオンは静かに鼻を啜ると、膝を抱えて小さく丸くなった。豊かな森を育む雨もここまで来ると小さな災害だと言わんばかりに、降りやまない雨が見える洞穴の入り口を睨む瞳はどこか恨めしそうだった。
「寒いの?」
「大丈夫」
「質問の答えになってないよ。僕は寒いのかどうかを聞いているんだから」
「……少しだけ」
観念したようにシオンは呟いた。いくらここが雨林で、高温多湿の気候だとしても、濡れた衣類をそのままにして、気温が低い洞穴に居続けたら、冷たくなった服に体温が奪われてしまう。どちらかというと寒さには強い体質を持つティナリだが、普通の人間であるシオンはそうもいかない。本来ならば濡れた服を脱がせて火を起こすことができればいいのだろうが、洞穴の中まで湿っていて火は起こせそうにないし、服を脱がれたらそれは別の意味で危険である。
しばらく考えた末、ティナリはそっと立ち上がった。
「失礼するよ」
シオンのすぐ背後に腰を下ろし、抱え込むように腕をまわす。驚いたシオンが振り返ると、至近距離で視線が絡み合った。これはこれで危険だったかもしれないと、ティナリは少しだけ後悔しかけた。しかし、腕の中で小刻みに震える体が冷え切っていることに気づくと、ティナリは腕に込める力を強めた。
「なっ、ティナリ!?」
「これはすぐに止む雨だ。長時間になるとしたら別だけど、短時間だったらくっついてあたためあっても凌げるよ。どう? 少しはマシでしょ?」
「マシ、だけど」
目を伏せたシオンの頬に、睫毛の影が落ちる。綺麗に生え揃った長い睫毛も、少しだけ桃色に染まった頬も、抱きしめている体の柔らかさも、その全てが自分にはないもので、ティナリは気がつかれないように隆起した喉を上下に動かした。
「ティナリってこういうことするんだ……」
シオンはふいっと前を向き、少しだけ不貞腐れたように呟いた。その声に滲んでいる感情が、ティナリの心に荒波を立てる。心外だ、と。自分と向き合わせになるよう、少しだけ乱暴に肩を引いた。そして、両頬を摘まんで容赦なく伸ばす。
「いひゃいいひゃい」
「まさかシオンは僕が誰相手でもこういう方法をとると思ってるの?」
「違うの?」
「違うよ、バカ」
こつん、と額を合わせて。目を見つめる。ティナリにとってシオンはたったひとりの女の子であることは、昔から何も変わらない。それが少しでも伝わるようにと、はっきりと口にした。
「シオンじゃなきゃするわけないでしょ」
雨の音と、互いの微かな息遣いだけが響く。まるでこの空間だけ世界から切り取られたかのように、互いの気配しか感じない。
目を丸くしてしまったシオンは、ゆっくり、こくりと頷いた。
「そっか」
「そうだよ」
「へへへ……」
「何、その顔。ほら、前を向いてて」
再び、少しだけ乱暴に前を向かせる。「痛い!」と抗議の声が飛んできたが、いろいろと我慢している身なのだからそのくらい許されたい。
「ありがと、ティナリ」
「どういたしまして」
雨は未だ止む気配がない。でも、しばらくは止まなくてもいいかもしれないと、ふたりはひそやかに願っていた。
降りしきる雨は大地に染み入り木を育む。そうやって大きく育った森は、森で起こった出来事を森の記憶として全て覚えているといわれている。日常の中の小さなハプニングも、森はきっと忘れない。ティナリも、そしてシオンも、決して忘れないのだ。
8.アビディアの森(豊かな/森の記憶/変わらない)
2024.08.25