【頂き物】淡い想いは春風の如く(万葉夢)

※『IRIS』詩さんからのいただきものです。

* * *

その日はたまたま気分が向いたのだ。今回の三川花祭は例年以上に熱が入っていて、趣向を凝らした遊芸が三つも用意されている。普段は祭りに足を運ぶことがない男も、神里屋敷で用事を済ませた帰り道に、ふらりと立ち寄ってみることにした。
そこで、男は運命に出逢った。

「すみません。ちょっとお聞きしてもよろしいでしょうか?」

雑踏の中ではなく、確かにすぐ後ろから聞こえてきた女性の声。自分に話しかけられているのだと脳が認識し、反射的に振り向いた。
真っ先に飛び込んできた長い髪の色は蜂蜜のような明るい色で、稲妻人としては珍しい色だった。若葉に似た色をした瞳は柔らかく下がり、親しみやすい表情を作っている。特徴的だったのは白衣だった。女性が医療に携わる者であるということが一目でわかる。
顔が熱い。喉がカラカラだ。一目惚れなんて自分が経験することはないと思っていたのに、まさかこうも容易く落ちてしまうとは、運命とはおそろしい。
それよりも、早く言葉を返さないと。

「は、はい! 僕にわかることでしたら……!」
「今回の三川花祭では、モンドのバドルドーを取り入れた遊芸で遊ぶことができると聞いたのですが、その屋台はどこにありますか?」
「ああ。秋津バドルドーですね。会場の一番奥にある屋台です。顔出し看板の手前の、あれですね」
「あっ! 本当ですね。バドルドーが描かれたのぼり旗が見えます! ご親切にありがとうございました!」

少しだけあどけなさの残った笑顔に、心臓を鷲掴みにされた気分だった。
このまま終わらせたくはない。どうにかして会話を続けて、せめて名前くらいは聞き出せないだろうか。

「バドルドーに興味があるのですか?」
「ええ! 故郷のお祭りに使われるものなので、つい気になってしまって」
「故郷……というと、モンドの方ですか。稲妻の女性とは雰囲気が違うと思いましたがどうりで……」

モンドは自由の国だと聞いたことがある。彼女から漂う明るく朗らかな雰囲気も、お国柄のひとつなのかもしれない。

「あの、もしよかったら僕が案内しましょうか?」
「えっ?」
「秋津バドルドーはふたりで遊ぶこともできるんです。ひとりでも遊べますがふたりのほうが……」
「クラテス殿」

この流れで名前を聞き出せたら。あわよくば一緒に祭りを回ることができたら。男はそんなことを目論んでいたが、女性――クラテスの名前はあっけなく、他の男の声によって知ることになってしまった。
クラテスの名前を呼んだ声の持ち主は、赤い瞳と紅葉の柄が施された装いが特徴的な青年だった。クラテスが「万葉さん!」と嬉しそうな声を上げたことで、否応にも青年――万葉の名前まで知ることになってしまったのだが。

「目当ての遊芸は見つかったでござるか?」
「ええ! 親切な方に教えていただきました。屋台はあそこで、ふたりで遊ぶこともできるらしくって」
「なるほど。では参ろう。競い合っても良いし、協力しても良い。いずれにせよ、クラテス殿の故郷の風を感じることができるであろう」
「……はい」

視線を落とし、笑む。その笑い方を見て、察してしまった。先ほど自分に向けられた笑顔が、クラテスにとって輪の外にいる人へ向けるものだということに。

「ありがとうございました」
「あっ、いえ、どうぞ楽しんで……」

丁寧にお礼を言ってくれたクラテスに対して、ぼそぼそとはっきりとしない言葉を返すことしかできなかった。楽しげに話しながら秋津遊芸の屋台に向かうふたりの後ろ姿を眺めて、ひっそりとため息をつく。

(男付きか……)

わざわざ祭りにひとりで来る女性なんているわけがないのに、そこまで頭が回らなかった。それくらい、運命めいた出逢いだと思ったのだ。しかし、それは男だけが感じたものだったようだ。
男は屋台で酒を買った。そして休憩用に設置されている四角い卓の椅子に腰掛け、浴びるように傾けた。失恋には酒だ。酒は全てを忘れさせてくれる。

「楽しかったですね!」

早く意識の輪廓が歪むほど酔いが回ればいいのに、耳はまたクラテスの声を拾ってしまった。しかも、それはまたしても男の背後から聞こえてきたものである。続いて椅子を引く音が二つ分聞こえてきた。クラテスたちが隣の席に腰を下ろしたのだと、簡単に察することができる。
このタイミングで立ち上がり、席を離れるのは逆に不自然だし、負けた気分になってしまう。男はその場に居座ることを決めた。酒を飲み、祭りの景色を楽しむ素振りを見せながら、耳をクラテスたちがいる方へと向ける。

「バドルドーと秋津遊芸を融合させるなんて、発想がすごいですよね! ひとりでもふたりでも楽しく遊べて……」

クラテスは男が隣の席にいることに気づいていないようだった。いや、たった数分会話しただけの赤の他人なのだから、もう存在自体が薄れているのかもしれない。
もうこのまま帰ってしまおうか。何度目かもわからないため息を男がついたとき、弾むようなクラテスの声が、不自然に途切れた。

「……万葉さん? 難しい顔をしていますけど……疲れましたか? なにか飲み物を買ってきます?」
「いや……ずいぶん楽しそうであったな。クラテス殿」

クラテスとは対照的に、万葉の声は落ち着いていた。いや、心のざわつきを隠そうとしているような、不思議な緊張感が伝わってくるようだった。

「トーマ殿とあそこまで親しいとは思っていなかったでござる」
「親しいというか、同じモンド人ですし、そりゃあ話は盛り上がりますよ」
「……そうであるな。すまない」
「いえ……?」

……これは。
男は我慢ができずに、肩越しに振り返った。ちょうど背中合わせになるような形で座っているため、クラテスの表情を見ることは叶わなかった。しかし、卓を挟んでクラテスの反対側にいる万葉の表情を、男は見てしまった。赤い瞳は切なげに寄せられて、心臓に当てた手の指先には僅かに力がこもっているようだった。

「クラテス殿が遊芸を探しているときもそうであった。クラテス殿が他の男と楽しげに話していると、胸のあたりが苦しくなるのでござる。これは何かの病であろうか」
「……それ、は」

心臓を押さえていたその手で、万葉は卓の上で祈るように組まれていたクラテスの両手に、触れた。

「医者であるクラテス殿はこの病を治せるでござるか?」

まさか。男は後頭部を殴られたような衝撃に襲われた。あれだけ仲睦まじい様子を見せつけられたというのに、ふたりは恋仲ではないようである。いや、互いに矢印は向いているものの、それを確信に変えていない、もしくは気づいていないのだ。特に、万葉という青年の方が。
ガタン! 勢いよく立ち上がったクラテスが、男を追い抜くように走り去ってしまう。

「し、知りません……っっ!」
「あっ、クラテス殿! 待つでござる、クラテス殿~!」

その瞬間に見えた横顔が、病でうなされるとき以上に赤く染まっていたから。一目惚れした女性の想いがいつか実るように、男はこう呟いたのだった。

「……お幸せに。おふたりさん」

2025.04.03